當山敦己(あっきー)の物語 #04

広島で、
第二の人生が始まる

福祉施設から届いた
一通のメール

全く想定していなかった研修依頼

はじめての講演会を終え、広島での3カ月間の仕事も満了した僕は再び神戸に行った。
今シーズンも働きに来てくれないかという連絡があったのと、手術費用ももう少し必要だったので二つ返事で行くことを決めた。

今回は社員さんにもカミングアウトして働かせてもらえたので安心できたし、1年目の経験もあったので仕事の幅も広がり、充実していた。

ある日、広島の福祉施設から1通のメールが届いた。内容はLGBTQについての研修依頼だった。僕は飛び上がるくらいびっくりした。

たった一度、講演会をしただけで、何の実績もない僕に研修依頼!?
急に心臓がバクバクした。どうしよう…。研修なんてしたことがない。そして、講演会は二度とやらないと思っていたから。

生まれて初めての研修講師

まさか依頼というかたちで来るなんて思ってもみなかった。でも断れない性格も相まって、僕は「引き受けます」と返信した。引き受けると言ってから、焦りだした。

研修ってどうやればいいの?あーどうしよう、とにかくそれっぽいことを並べて、データを入れ込んで資料を作成した。

そして迎えた研修当日。
神戸から広島まで高速バスで移動し、そこから電車とバスを乗り継いで施設へ向かった。正直、不安すぎて、到着していないのに帰りたいくらいだった。

この日のためにシャツやズボン、靴を購入した。名刺まで作っちゃって、「講師をしてますよ~」という雰囲気を出そうとしていた。(本日初めての研修講師)
とうとう施設に到着してしまい、施設の職員さんに向けた研修が始まった。

當山さんが
悩んできたことを
知りたい

そういう話を聞きたかった!

話した内容は、ネットや書籍からひっぱってきたものばかり。カンニングペーパーを用意し、それを一生懸命ひたすら読んだ。自分がイメージしていた研修はとりあえずできた。

研修が終わった後、職員さんとお茶を飲みながら話しをする時間があり、皆さんがとても親しみやすくて、僕も無事に終わった安心感からか、とても楽しいひと時を過ごした。
そこには、市の人権課の職員さんも来られていて、雑談のなかで、僕が「自分はトランスジェンダーという特性を持って生きてるけど、もし可能なら性別に違和感がない状態を体験してみたい」というようなことを話した。

すると、研修を依頼して下さった職員さんが間髪入れず「それ!!そういう話を聞きたかったんよ!」「當山さんの感じてきたことや悩んできたことを、私たちは知りたい」と言ってくださった。
その言葉に、僕はものすごく衝撃を受けた。

今につながる大きなヒント

調べれば出てくるような情報だけをひたすらかき集めていた自分にとって、この言葉は、今につながる大きなヒントやきっかけになった。研修で行かせてもらったのに、僕が逆に大きな学びを得た時間だった。

お話の時間も終わり、帰る支度をしていると、市の人権課の職員さんが「私も帰るので駅まで送りますよ」と言ってくださったのでお言葉に甘えることにした。

助手席に乗り、駅に向かっている車内で、「やっと、活動してる当事者と出逢えた。もうつかまえたからね!私、離さないよ!」と笑いながらも本気で伝えてくださった。

手続きを済ませたら、広島に住みます

「ぜひ、広島に来てほしい。私がなんとかするから」と。ものすごいエネルギーが伝わってきた。今日初めて出逢った僕に、こんなにも想いを伝えてくれるなんて。自分の心が「やってみたら良いじゃん!」と言っているような気がした。

僕は、「神戸での仕事を終えた後、タイへ性別適合手術を受けに行きます。手術が終わり、戸籍の性別変更手続きを済ませたら広島に住みます。それまで待ってもらえますか?」と返事をし、連絡先を交換して駅でお別れをした。

手術のためにタイへ

ここにたどり着くまでの道のり

2016年11月性別適合手術のためにタイへ渡った。
家族には「旅行に行く」とだけ伝えて。

オペ当日、病院へ行き手術説明を受け、
同意書にサインをする。
執刀医の先生の問診を受けて病室へ移動し、
看護師さんが手術の準備を進める。
少しずつ実感がわいてくる。

ここにくるまでの道のりを振り返る。

長かったのか、短かったのかも分かんないけど、
「ここまで来たんだ」と思った。

絶食36時間後、
世界で一番おいしかったうどん

看護師さんが迎えに来て、車いすに乗せられてオペ室へ移動した。オペ室に入り、手術台へ移動した光景はドラマで見るような天井だった。通訳さんもそばについてくれて、麻酔が効くまで声をかけてくれた。「麻酔入るよ~」と言われて数秒後には眠っていた。

手術後、麻酔からなかなか目覚めずに心配もかけたが、なんとか目覚めた。しばらく水分はダメだと言われていたが、口の洗浄液を飲みそうになるくらいのどが渇いていた。絶食36時間後のやよい軒のうどんが世界で一番おいしかった…。タイでやよい軒(笑)

傷口が痛むのを知ってて笑わせてくるタイの看護師さんに苦戦しつつ、自己治癒力を信じて出来る限り歩いたりしながら術後の経過も順調で、予定通り4泊5日で無事に退院。
その当時のパートナーや病院の日本語通訳スタッフさんにサポートしてもらいながら無事に乗り切れたことに感謝した。


性別適合手術


手術後に食べたうどん

震える手で
裁判所からの通知を開ける

嬉しさと憤りと、2つ目の誕生日

沖縄へ戻ったあとも大変で、市役所や病院へ行き、性別変更に必要な書類や診断書を集める日々が続いた。そして、2016年12月に家庭裁判所に申し立て、2017年1月14日裁判所からの封筒が自宅に届いた。

「やっと来た」と、家族が見ていない部屋で手が震えながら封を開けた。
文書には『性別の取り扱いを女から男に変更する』と記載されていた。
この一文がものすごく重く感じた。嬉しさと同時に、「こんなにしないと自分の生きたい性で生きられないのか」という憤りも感じた。

無事に性別変更が完了したことを友人に報告すると「1月14日は2つ目の誕生日だね!」と言われたときはなんだかすごく嬉しかった。「ここから第二の人生が始まるんだ」という、決意のような、覚悟のようなものが自分の中に生まれた。

再び広島へ、今度はひとりじゃない

そして2017年2月、僕は約束通り広島へと移住した。もう住むことはないと思っていた広島にまた来るなんて。でも、最初に来た頃とは全く違う気持ちだった。「待っとるよ~」と言ってくれる人が居る。 そして不思議なことに、当時のパートナーもたまたま広島での仕事が決まって、すでに広島で生活をしていた。

『今度はひとりじゃないんだ』と思えた。ほんとうに、第二の人生がスタートしたような感覚だった。

待っているだけじゃ駄目だ
講演会を自主開催

広がるつながり、
表に出るハードルの高さを実感

広島での生活がスタートした僕は、工場での仕事をしながら活動を始めた。「私がなんとかするから!」と言ってくださった方が僕を講師として市主催の研修に呼んで下さったり、一番最初に研修を依頼してくださった施設の方々が色んな方とのご縁をつないでくれたりした。

そうしていくうちに、だんだんと繋がりが広がっていって広島での活動が増えていった。

その当時、広島では唯一といっていい団体の交流会に参加してみたり、SNSで当事者の方とつながってみたりするなかで感じたことは、広島という地で「カミングアウトして表に出る」ということが非常にハードルの高いことなんだということ。みんな口をそろえて、「広島は保守的だから…」と言っていた。

「講演会は二度とやらない」
などと言っている場合ではない

沖縄から来た僕には分からないほどの『言えない環境』があるのかなと思った。それなら尚更、自分が出ていくしかない、呼んでもらうのを待ってるだけじゃダメだ。その気持ちが強くなって、自主開催で講演会をすることにした。「講演会なんて二度とやらない」などと言ってる場合ではなかった。

とにかく調べて出てくるだけの新聞社に講演会のチラシと掲載依頼を送った。20人程度しか入らない部屋に、追加で椅子を置いて、30人くらいの方が来てくれた。『当事者から話を聞いてみたかった』『当事者に初めて出逢った』そんな感想がほとんどだった。

自分にできることをやる。そう決めて活動を続けていった。
表に出ると、「権利ばかり訴えるな」「気持ち悪い」と誰かも分からない人からのメールが届くこともあった。その度に落ち込んだし、こわかった。LGBTQという言葉もまだあまり知られていない広島で、当事者が表に出ることの怖さを体感した。


自主開催した講演会

あの人と一緒に
活動がしたい

参加者代表のあいさつ

2017年12月3日、広島であるイベントが開催されることを知った。『OUT IN JAPAN』という、セクシュアルマイノリティの方を撮影し、可視化することで正しい知識や理解を広げ、カミングアウトを応援するという趣旨のイベント。

関東や関西で開催されているのは知っていたが、まさかこのタイミングで広島で開催されるとは…。これも何かの縁だと思い、参加を決めた。

撮影会が終わり、その後の広島城のレインボー点灯式とレセプションパーティーにも参加させていただいた。ただ、人見知りを発揮しまくっていた僕は、参加者の様子を見ながらひたすら食べて、お酒を飲んでいた。 会も終盤になったところで参加者代表のあいさつがあった。僕は「どんな人が話すんだろう?」と思いながら遠くの方から眺めるように聞いていた。

「私は休職中の教員です。今後、LGBTの子どもたちの居場所づくりなどをしてみたいと思っています」というようなことを話していた。 話している内容に感じるものがあったのか、その人の持つ雰囲気に何かを感じたのかはいまだによく分からないのだけど(どちらもあるのかもしれないな)、直感的に『あの人と何かやりたい!』と思った。


点灯式で広島城がレインボーカラーに

さーちゃんとの出会い

…そう思ったのだけど、やはり人見知りな僕は声をかけることが出来なくて会はそのままお開きとなった。僕は当時のパートナーと一緒に居たので、「声かけたかったけど、恥ずかしいしなあ…もう、帰ろうか」とか言いながら出口の方へ向かった。

代表あいさつをした人は、もう会場からは居なくなっていた。僕たちが帰るエレベーターに乗ろうとしたら、なんと、エレベーターの中にその人が居るではないか!!!! これはもう、運命だと思ったし、パートナーからの「いけ!」という様な後押しもあり声をかけた。

「さっき代表あいさつ、されてましたよね?聞きました!実は僕、今一人で活動していて。もし良かったら一緒に子どもたちの居場所づくりしませんか?」そう伝えた相手が、さーちゃんだった。

--- 當山敦己(あっきー)の物語 END ---