當山敦己(あっきー)の物語 #03

今度は自分が
背中を押す存在に

立てた目標は、
25歳までに手術をすること

直感がはたらき、神戸へ

胸オペ(乳腺摘出手術)の術後経過も問題なく過ごしていた僕は、次のことを考えるようになった。

「性別適合手術を受けて戸籍上の性別を男性にする」
自分が男性として生きると決めてから目標を立てていた。25歳までに手術をする。これが僕の現時点での人生最終目標でもあった。その先は全く考えられない。未来なんか見ている余裕はない。

とにかくお金を貯めなければ…。でも、沖縄の賃金では時間がかかる。そう思い、求人誌で情報を集め、県外の求人を扱っている窓口に行った。そこで見つけたのがリゾートバイトという仕事だった。 観光地にある施設(スキー場や温泉、ホテルなどが多い)で住み込みで働くものがほとんど。その中に、神戸の山にある野外施設での求人があった。

時期的にも良いし、子どもたちが体験学習に来るような施設だ。「ここに行きたい!」と僕の直感がはたらいた。すぐに問い合わせをして、担当者の方と面談をした。男性として働きたいことも伝えたうえで採用が決まった。出発は2週間後。

決まったものの、県外で働くことや住み込み、相部屋、共同生活(特にお風呂問題)など、正直不安だらけだった。でも行くしかない。覚悟を決めて神戸へと向かった。

不安いっぱいでのスタート

着いた初日は正直「帰りたい…」と思った。山の中だから近くにお店などないし、夜は外に出たら真っ暗だし、すでに働いていたバイト生と仲良くなれるか分からないし。

さらに、社員さんやバイト生にはカミングアウトしていなかったので、トランスジェンダーだと知られてしまうのではないかという恐れもあったし、万が一知られた場合のことも考えておかなくちゃいけない。かなりのエネルギーが必要だった。

そんな状況で上手く共同生活ができるかなあとスタートは本当に不安でいっぱいだったが、人は慣れるもので、だんだんと仕事も楽しくなってきて、周りの人たちとも少しずつ話せるようになっていった。

沖縄県民というだけで話のネタになったり、うらやましがられることもある。県外に出ないと分からなかったことだなあと思った。いつの間にかついたあだ名は「ゆいまーる」だった。音の響きが気に入ってつけたんだろうけど、沖縄の方言で『助け合い』って意味がある。なんか、いいじゃん。有り難いことに、期間満了までの約半年間楽しく過ごすことができた。

今度は、悩んでいる人の
背中を押せるように

これまで、人にたくさん助けられてきた

自分自身が性同一性障害だと分かってから、僕はある人の動画をyoutubeで観るようになった。当事者であり、色んな情報を動画で発信している姿を見て「すごいなあ。自分のことをこれだけオープンにしてて。いつか会ってみたいなあ…」なんて思いながらも、僕からすれば遠い世界の人という印象だった。

ある時、その人が「講演会をする」という情報を得て、飛行機と高速バスを乗り継いで講演会に行ったことがあった。そして、神戸での生活が終わりに近づいていたある日、講演会に行った憧れの人に会うため、僕は神戸市内のカフェに居た。

一緒に食事をしながら話していると、「自分も何か活動をやってみたい」「自分は人にたくさん助けられてきた。今度は自分が同じような悩み、セクシュアリティで悩んでいる人の背中を押せる人になりたい」という願いが自分の中にあることに気づいた。

心のどこかにあった「やってみたい」という気持ち

話していく中で「あつきくんも講演会してみなよ!サポートするよ!」と言われた。
自分が講演会を?授業中に教科書をみんなの前で読むだけで涙ぐんでた人間だぞ?そんな自分が講演会…?全くできる気がしなかった。でも同時に、心のどこかでは「やってみたい」という気持ちがあった。

それに、既にたくさんの講演会をしている方がサポートしてくれるというのなら…こんな機会は人生でもそんな多くないだろう。

自分でも矛盾しすぎてよく分からないが「やってみます!」と返事をした。そして神戸での仕事が終わった僕は一旦沖縄へと帰った。

まだ誰も
活動していない地域へ

自分に出来ることがあるかもしれない

沖縄に帰った僕は、日雇いの仕事をしながら、講演会をするための準備を進めていた。
まず、どこで講演会をするかというところから決めることにした。沖縄では出来ない…なぜなら家族にもカミングアウトしていないからだ。だから県外でやるという選択肢しかない。うーん。どうしようか…。無難なのは大阪とか、東京とかなのか?人も多いし、LGBTQに関しても割と認知度もある。

「でも、すでに活動している人やイベントが多い場所で自分がやる必要があるのか?」
「どうせやるんなら、誰も活動していない場所でやりたい」「支援団体が少ない場所であれば、自分にできることがあるかもしれない」
不思議とそんな気持ちが出てきた。

最終的に、中国地方まで候補を絞り込んだ。
正直に言うと、中国地方の県の位置関係はよく分からなかったし、行くならどこでも同じような感覚だったからあとは運任せみたいな部分もあった。そこで、人生二度目の県外求人窓口に行った。家族にカミングアウトしていないから、仕事という理由をつけて飛び立とうと決めていた。

広島で講演会をすることが確定
母親の寛大さに救われる

目に留まったのは、広島県にある工場の仕事だった。期間が3カ月ということもあり、講演会をするまでのつなぎだと思っていたので時期的にもちょうど良かった。社宅もあり、職場までの送迎もあり、給与もそこそこ良くて申し分なかったので応募した。

採用が決まり、飛び立つ日程も決まった。同時に『広島県で講演会をする』ということも確定した。…てか広島県ってどこだ?『はだしのゲン』だけは小学生の時に読みあさっていたので原爆ドームくらいは知っていたが、それ以外は全く知らない。

母親に「仕事決まったからちょっと広島行ってくるわ~」と言ったら、「はあ、あんた忙しいねえ~!」と、特に止められることもなく出発の日を迎えることが出来た。父親が口を挟んできても、「あんたのことだからなんとかやるでしょ」と言ってくれた。

今までもそうだった。僕がやると決めたことには否定せずに居てくれた。母親のその寛容さ、干渉してこなさには本当に救われた。

はじめての広島で

せっかく来たなら楽しもう!

2016年1月8日、広島空港に降り立った僕は強烈な寒さに驚いた。
「えっ、冷凍庫なの?」と思うくらい寒くて、この地で生きてけないと思った。

空港から車で20分ほど走ったところにあるワンルームの社宅には、寝具一式と最低限の家電があるだけ。 沖縄で暖房なんて使ったことがなくエアコンは冷房の機能しかないと思ってた僕は、「こんな寒い家でどう過ごしたら良いんだろう…」と、初日は毛布にくるまって朝を迎えた。

初めて見る雪にテンションが上がって朝の5時くらいに玄関先で小さな雪だるまを作ったり、とりあえず3カ月だし、せっかく来たなら楽しもう!と思い、日々過ごした。 ただ、手術費用を貯めてる最中の僕はお金を使えなくて、田んぼしかない社宅の周りを散歩ばかりしていた。

広島で初めて見る雪にはしゃぐ様子

初めて見る雪景色

原爆ドームを目の前にして

平日は仕事をして、土日は講演会に向けての準備をする。講演会場を決めなければ…。ネットで調べて、広島市にある貸し会議室をとにかく探しまくった。

青少年センターという施設ならアクセスも良さそうだし、金額的にも高くない。ここにしよう、と決めて電話で予約をした。仕事が休みの日に、支払いをするために広島市へ向かった。

初めて路面電車に乗り、最寄り駅で降り立った目の前には原爆ドームがあった。すごく不思議な感覚だった。僕の中では漫画の世界だった建物が、いま目の前にある。本当にこの場所で原爆が落とされたんだ…と思うと恐怖だった。

沖縄戦が起きた地で生まれ育った僕だけれど、戦争というものを正直そこまで身近に感じることはなかった。でも、原爆ドームという建物を目の前にしたときに、身近に、リアルに感じた。

この場所でたくさんの命が失われてしまったんだ。なんで同じ人間なのに、こんなことが起きてしまうんだろう…。人と人が争う世界は見たくない。そんな世界は嫌だ。そんなことを思いながら、手を合わせてその場をあとにした。

広島原爆ドーム

講演会の会場も日程も決まった

センターの受付で、申込書を記入していた僕は書いている手が止まった。『使用目的』の欄に詳細を書かなければいけないのだが、なぜか躊躇してしまう自分が居た。「セクシュアルマイノリティに関する講演会」と書いたらどうなるんだろう…。受付拒否されてしまわないかな…。そんなことを考えてしまった。

でも、嘘をつくわけにはいかない。隠してもしょうがない。思い切ってそのまま書いて提出をした。何もつっこまれることもなく無事に受付が完了した。良かった…ホッとした。さあ、場所は決まった。

開催日は2016年3月6日、あとは当日を迎えるだけ。

広島市青少年センターの入り口

僕の話を聞きたい人なんて
居るのだろうか?

いよいよ明日は講演会、その先は決めていない

講演会の日が近づくにつれて、だんだんと緊張と不安が増してきた。人前で話をすることはもちろん、自分のライフストーリーを話すということでさらに不安が募る。

「自分の話を聞きたい人なんて居るのだろうか?」
「ただの自己満足なんじゃないのか」
「こんなことやって意味あるのかな?」

そんなことばかり考えてしまっていた。

講演会をするためだけに沖縄から広島へ来て、工場で慣れないライン作業の仕事をして、休みの日は講演会の準備をして…。

そして3月5日、いよいよ明日だ。ここまで長かったようであっという間だった。明日の講演会が終わればとりあえず目標は達成だ。その先は決めてない。とにかく明日が終われば…。そんな気持ちだった。

ほとんどが、つながりある人たち

事前の参加申し込みは17名。
その中には、僕の大学時代の広島出身の後輩や、広島で知り合った友人、知人の知人、新聞の告知を見て申し込んでくれた方、そして僕のその当時のパートナーと弟、中学校の先輩が沖縄から応援で来てくれた。 ほとんどが知り合いというなかでの講演会になりそうだ。

前泊のために予約していたホテルに行き、明日に備えて早めに寝ようと思うのだが…、全く寝れない。 「早く寝ないと…」と思えば思うほど寝れない。結局、一睡もできずに朝を迎えてしまった…。(なんでこんなに緊張しいなの…)


妹たちと


2歳のころ


高校生のころ

そして迎えた当日
講演会は、もう二度としない!

アタマが真っ白、
何を話したのかすら覚えていない

結局、大学生以来のオールナイトとなった僕は、そのまま会場へと向かった。緊張が強すぎて眠さを感じる余裕なんてなかった。

会場のセッティングやパソコンの接続などをしながら開始時間を待った。正直、「時間よ止まれ!」と思っていた。でも時間は止まってくれない。

参加者も一人、また一人と来場し始めた。そして開始時刻が来てしまった。憧れの人が広島まで来て司会進行をしてくださり、いよいよ僕の名前が呼ばれて前に出ていく…。

ここからの記憶はほとんどない。頭が真っ白になって、何を話したのかすら覚えていない。ただ、前に立ち続けて、プレゼンテーションのスライドを見ながら一生懸命話したということだけは事実。
自分の講演が終わった後は放心状態だった。

完全燃焼、無事に終わってよかった

講演会としては、前半が僕のライフストーリー、後半は憧れの人の講演という2部構成の流れだったが、いつの間にか後半も滞りなく終わり、参加者の皆さんと短い時間の交流会をしてその場は終了した。とにかく無事に終わって良かった…。憧れの人との伴走期間もこれで終了、感謝の気持ちを伝えてお別れをした。

その瞬間、身体の力が一気に抜けた。

そして、「もう完全燃焼した。もう二度と講演会はしたくない!」と心の中で叫んだ。 もう一生、人前で話すことはないだろう。これは、貴重な思い出として心の中にとっておこうと決めた。

初めての講演会の様子