ここいろhiroshimaの物語 #01

自分たちが
欲しかったもの

運命の
エレベーター事件

あの人と一緒に何かやってみたい!
直感が生まれた

2017年12月3日、広島で『OUT IN JAPAN(*1)』が開催された。両親へのカミングアウトを経て、自分のセクシュアリティを大事にしても良いんだと思えたさーちゃんは、このイベントに参加することを決めた。

さらに、当事者代表の挨拶をすることになったさーちゃんは、自分の想いをそのまま表現した。「私は休職中の教員です・・・セクシュアリティで悩んでいる子どもたちの居場所をつくりたい」たどたどしいけれど自分の言葉で、真っすぐに伝えた。

さーちゃんのスピーチを同じ会場の遠くの方で、聞いていたあっきーに、「あの人と一緒に何かやってみたい!」と直感が生まれた。

*1)OUT IN JAPAN:セクシュアルマイノリティの方を撮影し、可視化することで正しい知識や理解を広げ、カミングアウトを応援するという趣旨のイベント



OUT IN JAPAN会場にて

エレベーターが一緒に、偶然の出会い

「居場所づくり」というところは全く想像していなかったけれど、そんな想いをもっている人が広島にいたんだ!一緒になら何かできるかもしれない。そう思ったあっきーはさーちゃんに声をかけようとした。が、恥ずかしがり屋と人見知りを発揮してしまって(笑)結局、声をかけられないまま会は終了した。

さーちゃんは次の予定があるため、帰ろうとエレベーターに乗り込んだ。同じタイミングで、声をかけられずに悶々としていたあっきーが乗り込んできた。

これが、私たちの出逢い【運命のエレベーター事件】だった(笑)

自分たちが
欲しかったものをつくろう

こころもからだもいろいろ、彩り豊かでええじゃん!

運命のエレベーター事件から10日後、私たちはスタバで再会した。お互いのセクシュアリティのことはもちろん、家庭環境も含めて悩んできたことや感じてきたこと。そしてこれからどんな自分で在って、どんな世界を見たいのかをじっくり話した。

「やっぱり2人でやろう。自分達が過去に欲しかったものをつくっていこう」と決意が固まった。

「まずは団体名を決めようか」そんなところからスタートした。とにかく思いつくだけの言葉を書き並べた。にじいろ、カラフル、色、、、なんだかしっくりこない。出てきたワードの中から、こころ、身体、彩り、、、これらの言葉を組み合わせて文章をつくってみた。

『こころもからだもいろいろ、彩り豊かでええじゃん!』

ピタッとはまった感覚だった。「これいいじゃん!!!!モットーにしよう!!!」

「ここいろhiroshima」が誕生

出来上がったばかりのモットーから、そのまま団体名をつくった。
「こころ、、、いろいろ、、、ここいろ!!」
「ここいろって響きも良くない!?」
「広島だから、hiroshimaつけようか!」

そうやって【ここいろhiroshima】が誕生した。

よし、団体名は決まった。とりあえず、まずは交流会の場をつくってみよう。
「日程と場所を決めればあとはやるだけ。最初から誰か来る可能性は低いかもしれないけど、誰も来なかったら2人でお茶でも飲みながら過ごそう!」
「そうしようか~(笑)」なんてことを言い合いながら、チラシやホームページ、ロゴの作成、広報など準備期間を考えて2ヶ月後の2月25日に第1回目のここいろ会をすることを決めた。

第一回
「ここいろ会」開催

大事な何かが芽生えた、とても温かい空間

第1回「ここいろ会」の開催までの約2ヶ月間、私たちは各々できることをやった。
さーちゃんはホームページの作成や告知、あっきーは講演先での告知や相談機関での周知など。そして迎えた2018年2月25日。12名ほどの参加者とここいろに関心を持ってくれた新聞記者さんが来てくれた。

ほとんどが大人だったが、対象としていた子どもと親御さんも一組参加があった。
「つながれた!」と思った。自分たちで開催した会に、これだけの方が来てくれたことが嬉しかった。
場を開いたものの、何をやるかまでは決めていなかったので、トーキングカードでお話しをしたり、子どものお絵描きをみんなで見守ったり・・・とても温かい空間だった。

終わったあとは、実感がないというのか、でも確実に自分達の中で大事な何かが芽生えたような感覚だった。帰りに食べたラーメンが最高に美味しかったなあ。
記者さんが翌日の新聞でここいろのことを記事にしてくださり、その新聞をきっかけに参加してくれる高校生も出てきた。

人が来ても、来なくても毎月開催

私たちの中で決めたことが一つだけあった。それは、「人が来ても来なくても、毎月ここいろ会をやる」ということ。 居場所があるよと感じてもらうことが大事だと思ったから。2018年2月から、西日本豪雨のときをのぞいて毎月続けてきた。

「また来月ね」と、1ヶ月後を楽しみにしてくれる人が増えていった。

続けていく中で、「2人に講演をしてほしい」「小学校で授業をしてほしい」という依頼が入ってくるようになり、私たちにとっても、「ここいろhiroshima」というものが大事なベースになっていった。